『人間失格』part9 (約1250字)

人間失格 太宰治

作者:太宰治
出版:青空文庫

「恥の多い人生を送ってきました」「人間失格」この小説の中でも特に印象に残り、なおかつ有名な言葉はこの二つであると思う。葉蔵が自分を否定し、他人と違う価値観を持つがために他人に恐怖し、苦悩してきたことが綴られている手記の中でもそれを象徴したものである。しかし、葉蔵は本当に人間を失格した存在だったのだろうか。私は葉蔵が自分から「人間であること」を厭っているように見えて仕方がない。自分を否定する言葉の裏で「他人とは違う特別な自分」、「俗で醜悪な欲にまみれた人間社会を離れたところにいる 自分」を好み、欲しているように感じるのだ。そしてこの葉蔵の姿は太宰治そのものであるのではないか、とも感じた。他人と違うことに苦悩する一方でそうあることを自分から望み、そんな自分を否定する反面俗なものから離れている自分に安心している。その矛盾が彼を道化に仕立て上げ、廃人に至らしめたのだろう。不安を感じ、孤独を恐れ、思い悩むというのは人間本来の姿である。
葛藤や矛盾は人間であるからこそおこるのだ。葉蔵が恐れていたのは、純粋であるために俗悪な人間社会に浸ることができず、人間であるのに他人と同じように世間に溶け込むことが出来ないことで、だから自分を人間とは離れたところに置きたかったのだろう。葉蔵に足りないものは何だったのだろう。人を信じる心だとか愛だとか心から笑いあえる友だとか、そういうものだろうか。それとも自分の本心を出せる勇気や強い心だろうか。私は違うと思う。もちろんそれらも大切なことだが、もっと根本的に、葉蔵に足りないものは自分を愛し認めることだったと思う。もし葉蔵にそれがもう少しあったなら、自分を作りすぎることはなかったし、人を愛することも堂々とできたと思う。
自分をさらけ出せないのは自分を認められないからだ。もし自画像を竹一以外にも見せることができていたら、周囲に絵の才能を認められ美術学校に入れていたかもしれない。自分に自信があればシゲ子の本当の父親になってシヅ子と三人で暮らそうと思うこともできたかもしれない。少なくとももう少しは「人間らしい」生活を送れただろう。自分を過度に偽ることもせず、彼の言うところの「道化」としてではなく、「人間」として生きていくことが出来ただろうし、「綿で怪我をする」ような弱虫にはならなかっただろう。
私がこの小説を読んで一番心に残ったのは第三の手記の最後の部分の「ただ、一さいは過ぎて行きます…」というところだ。その通りこれが真理なのだ。それなのになぜかとても哀しく感じられて仕方ない。強引に納得させられて諦めさせられるような、どうしようもない気持ちにさせられる言葉なのだ。しかし、マダムは手記を読んでも葉蔵のことを「神様みたいないい子」だったと言っている。これで葉蔵は救われたと思う。道化ではなく、本当の自分を告白しても拒絶せず、そんな風に言ってくれる人がいるのだ。自分を知ってほしい、認めてほしいと思ったからこそ葉蔵は手記を送ったのだろうから。

引用元:[図書館だより]
本の詳細:[人間失格]

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