『人間失格』part3 (約1850字)

人間失格 太宰治

作者:太宰治
出版:株式会社KADOKAWA

最近の事件を見ていると、失格ではないかと考えられる人々が大勢いるような気がするが、本当に人として失格なのは、どんな人間なのだろう。そして、太宰治さんの名作『人間失格』の主人公は、本当に失格だったのだろうか。

『人間失格』の主人公は大庭葉蔵という。葉蔵は女性と心中未遂をしたうえ、酒と薬物に溺れ、最終的に脳病院送りになってしまう。そして最後、自分を人間失格だと言う。

はたから見れば誰だってボロボロだと感じるだろう。でも本当は心中未遂で女性だけを死なせてしまったことや、多くの人に迷惑をかけたことに罪悪感を抱え、自分を責め続けていた。そんな風に自分のしたことに罪悪感を抱えられる人が失格である訳がないと思う。外はボロボロでも、心は健全である。私が本当に心まで壊れていると思うのは、人が傷つくのを見て満足したり、それを何とも思わないような人である。典型的なのが、いじめである。いじめている側は、相手が抵抗するのを見て満足することがよくある。また、それを何とも思わず遊び感覚のいじめもある。要するに、いじめている側は、いじめに対して罪悪感を持っていないことが多いのだ。

自分の犯した罪に対して罪悪感を持てる葉蔵の心と、人を傷つけることに対して罪悪感を持てない心。もはや雲泥の差である。

罪を犯すこと自体、人を傷つけてしまうこと自体、悪いことだとは思う。でも問題は、その後罪悪感を持って反省できるかだと思う。それができるのはすごく立派だと思う。そうしたらきっと罪を重ねてしまうこともないだろう。葉蔵も最後病院を出た後、田舎で療養して平和に暮らす。

罪を犯したら、悪い行いをしたと自覚し、反省することが大切だと思う。葉蔵は、それができる、立派な人間だと思う。

このように、葉蔵は立派な人格の持ち主であった。そんな人がなぜ、自分を「人間失格」とまで言わなければならなかったのだろう。

葉蔵は実は、人が何を考えて生きているのかさっぱり分からず、そんな自分をずっと責め続けていた。でも私は、そんなことで失格なんかにはならないと思う。誰でも一つは分からないことがあるはずだ。葉蔵はそれが人が何を考えているかというだけだったのだと思う。だから、そんなに自分を責めなくていいと言いたい。そんなので失格にならないと。それが分からなくて、人に聞くにも聞けない、でも知らなくても生きていけるような謎なら、ごまかして放っておいても構わないんじゃないかと思う。それが分からなくて自分を責めたり苦しんだりするくらいなら、知らなくてもいいのではないかというのが私の考えだ。分からないこともあっていいんだと、割り切ってもらいたい。そうすれば、そのことで悩み、苦しむ人々が少なくなると思う。

私は、葉蔵は決して失格ではなかったと思う。当たり前に悩み、当たり前に罪悪感を持つ、立派な人格を備えた人だったと思う。では、本当に失格なのはどんな人間だろう。

私個人の意見だが、よほどひどい事をしない限り、失格にはならないと思う。盗みをはたらいたりしても更生して真面目になっている人は多い。また、いじめや非行から立ち直って弁護士をしている人もいる。だから、人生はやり直せる。しかし、人への思いやりや気遣い、罪悪感を忘れたら失格かもしれない。そうなるときっと見放されてしまうし、孤独になってしまう。人が見放したり、失望したりされるような人が、失格なのかもしれない。それでも、失格になったら終わりという訳ではないと思う。信頼を失ってもまた築けばいいと思う。だから、自分はダメだと思っても、決して努力をやめずに、進み続けたらいいと私は考えている。

『人間失格』を読むことで、本当に失格なのはどんな人間かを考えることができた。でも、結論は、「失格は終わりじゃなくて、またやり直すこともできる」ということだ。だから、全然失格なんかを恐れることはないと思う。でも、私も他人も、思いやり、気遣い、罪悪感を最低限でも持つようであったらいいなと思った。たとえやり直せたとしても、信頼や友人を失うのは辛いからだ。

葉蔵も私は失格ではなかったと思うが、その線引きは個人の自由だと思う。だから、自分が合格だと考える中で行動すればいいと思う。でも、誰が見ても失格である行動は、絶対に慎むべきだ。誰からも見放され、自分が辛いだけだからだ。

私も他のみんなも、自分が合格だと考えるように動きたい(動いてほしい)。そして、客観的に失格である行動は慎みたい(慎んでほしい)。立派な人間になるには、この二つが不可欠だと思う。

引用元:[向日市立図書館]
本の詳細:[KADOKAWA]

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