『君たちはどう生きるか』part1 (約3000字)

君たちはどう生きるか 注目の本

作者:吉野源三郎
出版 : 岩波文庫

私はカバンに、マスクを常にしのばせている。花粉の季節やインフルエンザの流行期などはもちろんであるが、とりあえず一年中常備している。私はカバンに、マスクを常にしのばせている。花粉の季節やインフルエンザの流行期などはもちろんであるが、とりあえず一年中常備している。なぜなら、通勤電車のなかで、本を読みながら泣いてしまうことがあるからだ。そんなときマスクがあれば、鼻をすすろうが顔が涙にまみれようが、あまりみっともない姿を公衆にさらすことはない。
そんな理由で持っていたマスクが、偉大な効果を発揮した本。それが、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」である。
この本は、旧制中学に通う本田潤一君=通称:コペル君が、家族に見守られ、友と時にぶつかり支えあいながら、大人になっていく様子を描いたものである。
コペル君は、父親と早くに死別したものの、裕福な家庭に育ち、中学でもトップの成績である。そんなコペル君のいちばんの相談相手であり、父親代わりともいえる叔父さんとの会話を通じ、物語は展開していく。コペル君は、母親にはなかなか話せない悩みや葛藤を、叔父さんにはポツリと打ち明ける。
家が貧しいクラスメイトがいじめられていること。それを見ている自分が、何もできなかったこと。一方で、いじめっ子に真正面から立ち向かっていった親友を、まぶしく見つめたこと。コペル君は自分の非力や無力さを、叔父さんに話すが、そのたびにコペル君は、今まで考えてもみなかった視点を叔父さんに教えられる。
自分がいかに恵まれているかということ。しかし、まだ消費する側でしかないこと。貧しいクラスメイトは、家業の店を手伝い、すでに生産する側であるということ。
コペル君は、自分がまだ消費者でしかないことにいっそう無力を感じ、とともにすでに生産者となっている、そのクラスメイトに心から敬意を感じ、いつしか大好きな友達になっていく。
ところが、ここで一大事件が起きる。いじめっ子に立ち向かっていった、あの勇猛果敢な親友が、その一本気さゆえ上級生にからまれたのだ。しかしコペル君は、その状況を見ていながら足がすくんで動けない。他の友達は彼を助けるために、身を挺して飛び出したのに。コペル君は、良心の呵責にさいなまれて、とうとう高熱を出し、家で寝込んでしまう。
布団から出てこない息子に、いったい何が起きたのか事情が飲み込めない母親。しかしコペル君から、ことの一部始終を告白された叔父さんは、コペル君の母親にそっと真相を話す。
そして母親は、布団にもぐるコペル君の傍らに座り、話す。しかし、コペル君が遭った事件について直接言及するのではない。「お母さんね、昔、こんなことがあったのよ・・・」と、自分の体験話だけして、そっと寝床を離れるのだ。
ここだ。ここで、私は電車の中で「グシッグシッ」と声をたてて泣いてしまった。コペル君を責めるでもなく、追い詰めるでもなく、ただ「お母さんね、こんなことがあったのよ」と語るだけ。それがどんなにコペル君の気持ちをほぐし、温めたことだろう。コペル君の生きていく糧になったことだろう。
とにかくこの母親の姿に、私は泣けて泣けて仕方がなかった。
この本は、3月頃から書店のレジ前に平積みになっていたため、進学・進級を迎える学生さん向けなのかもしれないが、育児書としても大きな力を発揮してくれているように思う。と同時に、自分自身の青春時代を、「そういえばこんなこともあったなあ。どうしてああしなかったんだろう」と振り返る機会を与えてくれる師ともいえる本である。
あれ?そう考えると、コペル君の母親はこの本の登場人物なのではなく、この本自体がコペル君の母親なんだな。
ときどき母親に会いに行くような気持ちで、何度も読み返したい一冊である。もちろん、マスク片手に。なぜなら、通勤電車のなかで、本を読みながら泣いてしまうことがあるからだ。そんなときマスクがあれば、鼻をすすろうが顔が涙にまみれようが、あまりみっともない姿を公衆にさらすことはない。そんな理由で持っていたマスクが、偉大な効果を発揮した本。それが、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」である。
この本は、旧制中学に通う本田潤一君=通称:コペル君が、家族に見守られ、友と時にぶつかり支えあいながら、大人になっていく様子を描いたものである。コペル君は、父親と早くに死別したものの、裕福な家庭に育ち、中学でもトップの成績である。そんなコペル君のいちばんの相談相手であり、父親代わりともいえる叔父さんとの会話を通じ、物語は展開していく。コペル君は、母親にはなかなか話せない悩みや葛藤を、叔父さんにはポツリと打ち明ける。家が貧しいクラスメイトがいじめられていること。それを見ている自分が、何もできなかったこと。一方で、いじめっ子に真正面から立ち向かっていった親友を、まぶしく見つめたこと。コペル君は自分の非力や無力さを、叔父さんに話すが、そのたびにコペル君は、今まで考えてもみなかった視点を叔父さんに教えられる。自分がいかに恵まれているかということ。しかし、まだ消費する側でしかないこと。
貧しいクラスメイトは、家業の店を手伝い、すでに生産する側であるということ。コペル君は、自分がまだ消費者でしかないことにいっそう無力を感じ、とともにすでに生産者となっている、そのクラスメイトに心から敬意を感じ、いつしか大好きな友達になっていく。
ところが、ここで一大事件が起きる。いじめっ子に立ち向かっていった、あの勇猛果敢な親友が、その一本気さゆえ上級生にからまれたのだ。しかしコペル君は、その状況を見ていながら足がすくんで動けない。他の友達は彼を助けるために、身を挺して飛び出したのに。コペル君は、良心の呵責にさいなまれて、とうとう高熱を出し、家で寝込んでしまう。布団から出てこない息子に、いったい何が起きたのか事情が飲み込めない母親。
しかしコペル君から、ことの一部始終を告白された叔父さんは、コペル君の母親にそっと真相を話す。そして母親は、布団にもぐるコペル君の傍らに座り、話す。
しかし、コペル君が遭った事件について直接言及するのではない。「お母さんね、昔、こんなことがあったのよ・・・」と、自分の体験話だけして、そっと寝床を離れるのだ。
ここだ。ここで、私は電車の中で「グシッグシッ」と声をたてて泣いてしまった。コペル君を責めるでもなく、追い詰めるでもなく、ただ「お母さんね、こんなことがあったのよ」と語るだけ。それがどんなにコペル君の気持ちをほぐし、温めたことだろう。コペル君の生きていく糧になったことだろう。
とにかくこの母親の姿に、私は泣けて泣けて仕方がなかった。
この本は、3月頃から書店のレジ前に平積みになっていたため、進学・進級を迎える学生さん向けなのかもしれないが、育児書としても大きな力を発揮してくれているように思う。と同時に、自分自身の青春時代を、「そういえばこんなこともあったなあ。どうしてああしなかったんだろう」と振り返る機会を与えてくれる師ともいえる本である。
あれ?そう考えると、コペル君の母親はこの本の登場人物なのではなく、この本自体がコペル君の母親なんだな。
ときどき母親に会いに行くような気持ちで、何度も読み返したい一冊である。もちろん、マスク片手に。

引用元:[季節はずれの読書感想文]

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