『学問のすすめ』part1 (約1800字)

学問のすすめ 福沢諭吉

作者:福沢諭吉
出版:青空文庫

学問とは一体何か。学問とは大学の専門的知識やノーベル賞を取るような高度なものであると憧れていたが、この本を読み、今初めてそれは身近に考えるべきものだと分かった。

私は学生でありながら学問とはなんぞやという問いを一度もしたことがなく、この本から十分に反省させられた。

「日本にはただ政府ありて未だ国民あらず」の本書に出てくる言葉通り、外国との交際を閉ざした当時の日本の人民は、政府に飼われた家畜的存在でしかなかった。

この本の中で、諭吉は、当時の人民に、人間平等、科学的精神、文明国としてのナショナリティを唱えた。そして自由民権運動が発足し、一方では福沢が家畜的人民でしかない人間を真の人間となすための教育の必要性を痛感し、国を治める者を教育する学問(儒教)でなく、治められる者を教育する「実学」を広く世間にすすめた。

「愚民の上に苛き政府あり、良民の上には良き政府あり」。学ぶことで愚民が良民となり、愚民が誇り、義務を知り、政府と国民が一体化した国家を作り上げねばならぬ。そして、国民の手で国を発展させねばならぬ。今日の学校教育の目的もそこにある。

だが学校の実態を探ると別の方向へ行進している様な気がする。習う教材を自分と関連づけてこそ現代流「実学」が生じると思うが、私達は入試に必要な部分を重視し、自分の実学を軽視している。これでは入試に役立っても自分には無益である。学生も学校側も入試を重視しすぎる。

学生だけではない。大人達も考えるべきだ。学問は、虚栄心を満足させる程度のものであってはいけない。

学問とは「思索すること」だと考える。それを一番強く痛感すべき者は今日の大人達ではないのか。義務教育制があまりに完璧にすぎ、目的が損なわれ、大人の手、学生の手でゆがめられてしまった。

文明開化を口々に唱えた明治から約百年五十年、大進歩を遂げた日本に残る課題の一つである。親も教育者も学生も、謙虚な態度で学問を根底から追求すべきではないか。福沢は現代人に「学問への正しい道」をすすめている。

『学問ノススメ』が「過去に例をみない稀有の書」と言われるほど、当時の日本人に愛読されたのは、その思想が万民に受け入れられたからだろう。

ただし福沢は思想家であり、すぐれた教育者でもあった。また、福沢は愛国精神の人でもあった。そのため、その愛国心・報国心が福沢自身意識しながら国粋主義と化していったことに私は反発を覚えた。

時代の違いからくるものかもしれないが、平等精神を唱え、世界見識も広い人が個人感情に溺れたことは許し難く、この考えが明治以後の戦争という不幸を招いたとしても過言ではない。政治の執行者・思想家は常に冷静な態度で世界を凝視し、正しい日本国独立を目指すべきと考えるからだ。

すべてが完全な人間はこの世に存在しないが、諭吉には、学問をすすめる人として、その後の国の進路が、間違った方向に進まないよう意識的に指導して欲しかったと悔やまれる。

学問の根本は「疑うこと・探求すること」ではないのか。だが、現代の学問は「信じること」を良しとしとする風潮がるため、今日の日本人は「疑」を知らず自己満足し、人々は真の学問を見失い、ただ指示をまつだけの人間へと洗脳されているのではなかろうか。自分の無知や愚かさを常に自覚し、永遠に探求する人こそ真の学問を修めた人だと私は思う。

また、福沢は実学と共に、高尚な学問をすすめている。その高尚な学問こそ現代の学問である。デカルトは「人生に有用であると同時に喧・認された認識」を求めたが、彼によれば学問は道徳(知恵)でもあった、私達も有益な人生の知恵を学問から学び取るべきではなかろうか。

人の歩む正しい道を、他人を理解し互いに幸福を高める知恵を学ぶべきではないのか。現代には、学問の専門知識に将来への夢をもつ人もいる。普遍的真理を探求し、ブッタのごとく我執を追放し理想的人間像を作り上げる人もいる。

そして、みずから個人の、世界の、人類の、幸福を求めている。だから人は、学問を「宝の持ちぐされ」としないで、実学同様、人生に、社会に、貢献させるべきである。

この本は単なる学問のすすめでなく「人間の心得」が示されている点もすばらしい。学習は、理論が実践された時初めて本物となるもののはず。私はこれからの人生を『学問のススメ』の教えを心に携え、自らの理想を目指し実践する人でありたいと思う。

引用元:[読書感想文の書き方]
本の詳細:[学問のすすめ
]

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