『桐島、部活やめるってよ』part1 (約1050字)

メディア化作品(映画) 桐島、部活やめるってよ

作者:朝井リョウ
出版:[https://twitter.com/asai__ryo?lang=ja]

出版:集英社

 「桐島、部活やめるってよ」に登場する高校には階級が存在し、誰しもがその階級を意識していました。菊地宏樹は運動神経が抜群でイケメン。野球部のキャプテンからは、練習には出なくてもいいから試合だけには出てくれと毎回頼まれます。一方、映画部の前田涼也は、女子たちからはダサいと言われて、菊地などのグループには近づきません。

 ただ、菊地は、そんな風潮をどこか冷めた目で見ています。「未来はどこまでも広がっている。/違う、出発点から動いていないからそう見えるだけだ」と自分に言い聞かせることができるほどの感性を持っています。そんな菊地は、映画部が朝礼で表彰されてから、前田たちをダサいと感じることはなくなりました。むしろ、前田たちには、いくら女子たちから笑われようが、そんな事が一瞬でなくなってしまうくらいのものがある、とうらやましくすら思っています。同時に、何もない、何もしていない自分に対して、苛立ちを感じます。

 ダサいって何だろうと思いました。一番、ダサいのは、何もすることがなく、毎日の時間を無為に消費することかもしれないと思いました。もちろん、生きるとは何ぞや、というような大上段に構えた命題が作品の中で提示されているとは感じませんでしたが、前田のようにすべてを捨ててでも打ち込める何かを持っている人間は幸せだと思います。前田の場合は、理屈ではなく、ただもう映画が好きで、気付いたら映画部に入り、同じように映画が好きな仲間を見つけて、自分たちで映画を撮っていたのでしょうが、前田のように打ち込める何かがない人間は、少なくとも、打ち込める何かを探さなければならないのかもしれません。それができない菊地は、自分のことをダサいと感じているのかもしれないと思いました。

 ただ、世の中、といいますか、人間社会というものはそう簡単なものではないとも思いました。

 最後の章「東原かすみ~14歳」では、14歳のかすみは、周りの目とか周りの評価とかではなく、自分の心に素直に生きた方がいいと感じていました。しかし、本編の高校に登場する(たぶん)17歳のかすみは、再び14歳のころに後悔したような自分に戻っているとも感じられます。日本社会、学校社会、女子社会というものの人間を抑圧する力とでもいうものを感じました。出る杭は打たれると言いますが、その出る杭を打つ人間たちは、自分は人目に触れない安全な場所にいるのかもしれません。そういった大衆とでもいうべきものこそダサいのかもしれませんが、たとえダサくても、従わざるをえない力を持っているのかもしれないと思いました。

 

引用元:[竹内みちまろのホームページ]
本の詳細:[
桐島、部活やめるってよ]

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