『ナラタージュ』part1 (約1200字)

ナラタージュ (新潮文庫) メディア化作品(映画)

作者:島本理生
出版:新潮文庫

 「ナラタージュ」には、父親を失くした人たちが多く登場すると思いました。葉山と柚子は、母子家庭で育っています。小野は、泉に、祖父が戦争から戻らずに祖母は女手一つで5人の子どもを守ったという話をします。泉の家庭は、母親が夫である父親を心から愛している一方、娘である泉はどこか父親を覚めた目で見つめています。泉は父親と2人でどこかに出掛けたり、遊んだりした記憶がほとんどなく、「尊敬はできても娘の視点として見たときに遠く感じる」存在で、「妻にとっては魅力的な男性かもしれないが、私にとってはどこかよそよそしい人」。ドイツではそんな父親との交流をかすかに期待する場面もありましたが、父親は泉に興味を示しませんでした。そして、泉は、「ふと、だから葉山先生なのだろうか」と思い、葉山が父親とは全く違うタイプであることに気付くと、「我ながら単純だなあ」と苦笑いをします。志緒からは、「前から思ってたけど、泉は年齢の離れた男女の恋愛の話が好きね」と言われていました。
そんな泉ですが、付き合うようになった小野の強さに触れ、「ああ、この考え方がきっと小野君の一番根本的な核となっている部分なのだ」と感じます。泉が胸をときめかす場面もありましたが、葉山への嫉妬により小野は泉に、志緒から「別れたほうがいいんじゃないの」と言われるほどのひどいことをするようになりました。
小野とはうまくゆかず、どうしても葉山に引かれてしまう泉ですが、葉山が「仕方ないんだ。僕は君の求めるものをなに一つ与えることが」と口にしたとき、頭に血がのぼり、葉山に感情をぶつける場面がありました。
泉は「あなたはいつもそうやって自分が関われば相手が傷つくとか幸せにできないとか、そんなことばかり言って、結局、自分が一番可愛いだけじゃないですか」といい始め、「私を苦しめているものがあるとしたら、それはあなたがいつまで経っても同じ場所からでようとしないことです」と言います。
この場面を読んで、川端康成の「山の音」が思い浮かんできました。というのも、泉が今いる場所から一歩も前に進もうとしない葉山の背中を押そう、押そうとする姿が、「山の音」に登場する修一と菊子の姿に似ているような気がしたからです。修一は戦争から帰ってきて人間が変わってしまいましたが、それでも、修一なりの方法で、菊子の背中を押そう、押そうとしているように感じました。それでも菊子は今いる場所から前に進もうとしないのですが、この場面を読んで、泉と修一が重なって見えました。
「ナラタージュ」では、「山の音」を読んだときに感じたような、ある時代を生きる日本人の姿や美しさのようなものは感じませんでしたが、一方では、「ナラタージュ」を読んで、もしかしたら、日本の文学というものは、紫式部や清少納言の時代からずっと、変わらず女流文学の中にあり、そんな日本の文学においては、「父親の不在」というものが大きなテーマなのかもしれないと思いました。

引用元:[竹内みちまろのホームページ]

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