『忍びの国』part1 (約1150字)

メディア化作品(映画) 忍びの国 (新潮文庫)

作者:和田竜
出版:新潮文庫

 

「忍びの国」は面白かったです。史実として知名な天正伊賀の乱が背景でしたが、とにかくキャラクターが強烈でした。

地侍が室町幕府の守護勢力を追い出した伊賀の国では、独特の風土が生まれ、地侍は徹底的に搾取階級となり、下人は下人として、赤子のころから徹底的に忍としての訓練を受けさせられていたようです。
 特権階級となった地侍たちの姿は、語弊を恐れずにいえば、どの時代のどの場所でも見られるものかもしれません。が、「忍びの国」を読み終えて、伊賀の下人たちが、人間としての心を徹底的に失っていたことが印象に残りました。
冒頭で、文吾が朋輩と2人で逃げる場面がありました、矢を受けた朋輩は「伊賀まで肩を貸してくれ、頼む」と告げますが、文吾は鼻で笑って「お前が俺なら連れていくか」と答え、朋輩を見捨てます。伊賀者全体が、誰を犠牲にしても自分の命だけは大切にするという発想で生きていました。また、金のためなら、同じ村の者を寄ってたかってみなで殺すことなど普通に行われていました。
そんな伊賀者だったので、他国からは恐れられていた一方、人間扱いをされていませんでした。確かに、「忍びの国」で描かれていた伊賀者たちは、もはや「人間」と呼べる存在ではありませんでした。そんな者たちが、人間の格好をして自分の周りに紛れ込んでいたら、ただただ恐ろしいというほかありません。
「忍びの国」を読んで恐ろしいなと思ったのは、そんな伊賀者が1人や2人ではなく、伊賀という国の住人が全部、伊賀者であり、そんな人間扱いできない不気味な存在で成り立つ伊賀という国が出来上がっていたことでした。
信長によって伊賀が徹底的に破壊された後、侍大将の日置大膳は、「斯様(かよう)なことでこの者たちの息の根は止められぬ。虎狼の族は天下に散ったのだ」と長野左京亮に告げ、「自らの欲望のみに生き、他人の感情など歯牙にも掛けぬ人でなしの血は、いずれ、この天下の隅々にまで浸透する」とつぶやいていました。
 
「忍びの国」では、個々の忍たちに特化すれば、赤子のころから人間扱いされずに徹底的に下人として生きさせられることにより、「自らの欲望のみに生き、他人の感情など歯牙にも掛けぬ人でなし」の「虎狼」に作り上げられていました。そこでふと、人間をそんな「虎狼」にしてしまう伊賀という国は、言葉を変えれば、そういった社会や組織は、現代のブラック企業や宗教団体の例を挙げるまでもなく、いつの時代にも存在するのかもしれないと思いした。そう考えると、「忍びの国」に描かれていた伊賀という国だけが特種というわけではなく、程度の差こそあれ、そもそも、人間の中には始原的に「人でなしの血」というものが流れており、特別な要因や背景がなくても、“人でなしの国”というものは、次から次へと生まれてくるものなのかもしれないと思いました。

引用元:[竹内みちまろのホームページ]

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